森村泰昌展・なにものかへのレクイエム−戦場の頂上の芸術−

caltec2010-04-02



東京都写真美術館にて「森村泰昌展・なにものかへのレクイエム−戦場の頂上の芸術−」を観る。


マリリン・モンローオードリー・ヘップバーンなどの有名女優に扮した自分を被写体とした「女優M」シリーズや、ベラスケスの「ラス・メニーナス」やフェルメールなどの有名絵画に描かれた人物に扮した自分を被写体とした「名画」シリーズなど、どこかナルシスティックでユニークな観点からの写真表現で知られる森村泰昌


その彼が近年取り組んできた「なにものかへのレクイエム」シリーズの集大成ともいうべき展覧会が開催されるということで、期待して美術館を訪れた。


美術館のホームページにおる本展覧会の概要は以下の通りだ。

私達は、戦場の頂上に旗を掲げます
意気揚々たる、勝ち誇る旗ではありません


一枚の薄っぺらな画用紙 平々凡々たるカンバス
私の旗は 白い旗です


見上げれば、宇宙の風 見下ろせば、戦える大勢の人々
宇宙の風と戦いの影がせめぎあう 地球の頂上に立ち
あなたなら どんな形の どんな色の どんな模様の
旗を掲げますか


(新作映像作品《海の幸・戦場の頂上の旗》より)


80年代から一貫して、名画の登場人物や映画女優などに自らが「なる」変身型セルフポートレイトの写真作品を手がけてきた美術家・森村泰昌。本展では、森村が「20世紀の男たち」に扮する新作シリーズ<なにものかへのレクイエム>を完全版でご紹介します。


20世紀は男たちが建設し、争い、破壊してきた歴史であるにもかかわらず、21世紀の現代では急速に「男性的なるもの」の価値が忘れ去られようとしています。森村泰昌はかつて<女優>シリーズで、映画という「フィクション」のなかで輝きを放つ20世紀の女たちの世界を表現しました。<なにものかへのレクイエム>シリーズでは、森村は「男性的なるもの」の輝きを求めて、政治や戦争、革命という「現実」の世界、20世紀を記録したシリアスな報道写真の世界に取組んでいます。<美術史の娘><女優>シリーズと過去に発表した作品のなかで、女性に「変身」するイメージが強かった森村泰昌。「男たち」になることは、自らの身体を 媒介にして性を自由に超越し、「私」の可能性を追求するセルフポートレイトの新たな挑戦でもあります。


『現在私たちは21世紀を生きています。しかしこの21世紀は、かつて人々が想像していたような夢の世紀ではないようです。にもかかわらず、人類はこの21世紀をまっしぐらに突っ走っているかに思えます。前の世紀である20世紀をブルドーザーで更地にして、20世紀的記憶を忘れ、その上にどんどん21世紀が出来上 がってきつつあるように思います。私はここでいったん歩みを止めて、「これでいいのかしら」と20世紀を振り返りたいと思いました。過去を否定し未来を作るのではなく、現在は過去をどう受け継ぎ、それを未来にどう 受け渡すかという「つながり」として歴史をとらえたい。そしてこの関心事を私は「レクイエム=鎮魂」と呼んでみたいと思いました。』(森村泰昌)
鎮魂歌(レクイエム)。それは、森村泰昌というひとりの美術家が自らの身体という器に歴史の記憶を移し替えるセルフポートレイトの表現によって、過ぎ去った人物や時代、思想への敬意をこめて、失われていく男たちの姿を21世紀に伝えようとする行為なのです。20世紀とはどういう時代だったのか? 歴史の記憶に挑む森村泰昌の新たなセルフポートレイト表現の集大成をお楽しみください。


さて、結果はと言えば、、男性である森村が歴史上の男性を演じているので当たり前と言えば当たり前だが、彼の表現の特徴だと思っている、意外性・インパクト・アウトロー感というものは、女優シリーズや名画シリーズと比べ薄かった。


またヒトラー三島由紀夫などの映像作品を見る限り、そこに現れる森村の解釈による過去の人物像には、個人的には共感ができず、そこまで踏み込んで表現する必要があるのか?という点には疑問を感じた。映像作品を観ずに、アイン・シュタインや毛沢東に扮する森村のセルフ・ポートレイトを観れば良いだけの話なのかもしれないが、それだけでは、今までの森村作品と比べて、面白みを感じることができない、と言うのが正直なところだ。


美術手帖」など多くのアート・写真系の雑誌で本展覧会の特集を組んでいるので、展覧会では感じ取れなかった森村泰昌の本シリーズに対する考えを深めて、本展覧会を捉えなおしてみたいと思う。


企画力  :★★★★☆
展示方法 :★★★☆☆
作品充実度:★★★★☆
満足度  :★☆☆☆☆



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